置くタイプの花火が気に入ったようで、手持ち花火も置き型にして楽しむ。
大人が考える型枠を飛び越える瞬間がある。子どもの自由さと、凝り固まった大人になっちまった自分を比べてアチャーと頭を抱えている。
中学高校と武道系の部活だったのでこの言葉はよく聞かされた。
人生ってどこからどこまでが【守】なんでしょうね。もしかしてこの世に生まれた瞬間から【離】だったりするんだろうか。
風呂に入れていたら眠ってしまった。大きくなったなぁと思う事が増えてきたけれど、こうして睡魔に耐えきれず眠ってしまう所とか、上手く出来なくてしょんぼりしてしまう様子を見ていると可愛くてつい頬が緩む。
冷静に考えると、一緒に風呂入ったり遊んだり出来るのは、あと10年もないんだろうなぁ。
両親や世の中の先輩パパママが「この時期は今だけだから!今を味わえ」というようなセリフをよく言う。後からじゃ味わえないんだもんな、そりゃ言うよね。人間が何かを実感したり、心の底から納得できるのって、機を過ぎてからだと思う。
その感覚って写真にも通じるなぁと思った。「今撮らなくてもまた後で撮れるだろう」そう思ってシャッターを切ることを先送りにするのはよくないなぁ。そう思うと、人生の二度とない瞬間を形として残せるのだから、写真てすごいものだ。
今年もお義母さんの畑が豊作だ。趣味でここまでやっているらしい。味見た目ともにスーパーに並ぶものに引けを取らないと思う。
「直売とか、通販とかで売れそうですよね」と言ったら、何度か販売を検討したこともあったらしいが、近しい人にお裾分けして、楽しく続けたいから今のままで十分とのこと。
そうなんだよなぁ。楽しく続けるってのが何よりも大切なんだよなぁ。心の豊かさが失われることってのはしたくないものですよね。
ベストシーズン到来です。
プールでテンションぶち上げの息子は、近づくと水をかけてくる。
カメラの防滴機能を信じて夏のド真ん中に突っ込む。
庭でお義母さんが作業をしているのを見つけた息子は、「バァーバー!!」と声を上げ一目散に外へ出かけていった。部屋に残された僕とオモチャたち。なんとなく息子の気配を感じたのでシャッターを切った。
余韻や気配、音や匂いも撮りようによっては写るのだから写真ていうのは結構すごいと思うんですよね。
梅雨の晴れ間。この晴天を誰よりも待ち望んだのは息子だったんじゃないだろうか。
それくらい外を楽しそうに走りまわっていた。
走るのが本当に速くなった。親父の威厳を保てるのはそう長くはなさそうです。このままならば。まだ負けたくないので、最近ささやかなる抵抗として筋トレを始めました。「体力をつけて幼児に負けない運動能力を手にする」文字に起こすとダサさが際立ちますが、カッコいいおとうちゃんでいたい。顔はデザイン的に無理なので、せめて運動能力とか、その辺でなんとかしたい。できることはやらないといけない。単純な事だけど、息子がいるとより際立ち、改善しなくてはという気になる。
年齢や性別、ほかにも色々な区分けがある。もちろんその中には必要なものもあって、利便性や人助けにつながるものがある。それはそのまま残せるようにしたい。この子が大きくなったとき、区分けのせいで何かを制限されたりすることがない世の中にしておかないとですよね。
帰宅すると玄関に息子が制作した作品が展示されていた。こういうものに癒やされる。息子よ、ありがとう。
4、5月は短時間勤務とリモートワークで家族で過ごす時間が増えた。仕事にも特段支障はない。通勤する必要ってあるの?そこに気付いてしまった人はきっと多いはずだ。
通常勤務に戻ったのにどこか腑に落ちないのは、それだよ。ステイホームしたいしキッズとプレイしていたい。
最近息子を撮ろうとすると「僕がやる」と言ってカメラを取られる。X-T1が好きなようで構えようなら「僕の」と言う。D610だってそう。ブロニカで撮ろうとすると露出計をいつも奪われる。
そしていい写真を撮るんだ。カメラの設定だけして渡すと慣れた手つきで取り始める。
これは息子の眼差しだ。周りの人が息子に見せる表情がみんな笑ってる。僕が撮ったんじゃこの表情は撮れない。写真は眼差しを切り取るものだということを改めて実感できる。何はともあれ、息子が優しい世界を見ているようで安心する。
親が楽しそうにやってることを子どもは真似するという話を聞いたことがある。善悪や是非も大事なんだけど、僕は楽しさや優しさってものに真っ先に触れて欲しいと思っているよ。なぁ、息子よ。