朝焼け3.7

目の届く範囲の、日記みたいな写真を撮っています。

写真の立ち位置

生まれてこの方、写真展というものに行ったことがなかったんだけど、この前はじめての写真展に行ってきた。

 

 

www.artsmaebashi.jp

スマホのニュースにこの展示の情報が入ってきてたまたま知ることが出来た。でも冷静に考えると、たまたまじゃなく、このところ前橋やら萩原朔太郎という言葉をスマホで検索したりしてたから、必然というか、Googleのお節介にしてやられた。

初めての写真展が地元の詩人の写真にまるわるものっていうのもなかなかいい選択だったと思う。

 

詩人の撮る写真ていうのはどんなものなんだろう。詩人の撮る写真を想像する前に、詩人としての萩原朔太郎のことさえよく知らない。もしかすると、群馬県人として一般教養・義務教育レベルで言えば他県の方よりは知ってるかも知れないけれど、それでも国語の教科書に収まる程度だ。

 

悩んで抗って、折れて悶えて憂鬱に巻かれながら歩く。なんとなく近代の「詩人」という言葉が一人歩きするとネガティブな方向へ進みがち。これはまったく個人的な勝手なイメージだから間違いもあると思うけど、朔太郎もそうした世界観の詩が多い気がする。写真も、彼の詩の延長線上にあるもので、作風もきっとそうなのだろうと思った。

実際に額装されたプリント眺めてみると、心地良さや安心感のようなどちらかというと前向きな印象があった。詩人である朔太郎が撮ったことに変わりないけれど、写真を楽しみとして撮っていたんだろうな、という感じがした。表現としての写真ではなく、趣味として、楽しみとして、記録としての写真だったのかな。

 

ネットを介して写真を見せてもらったいる方々や、何なら自分が撮る写真と共通する部分もあったりして結構うれしかった。「いいよねぇ、これは撮るよねぇ」と共感できる部分もあったし、それでいてやっぱり詩人としての視線みたいなものがチラッと見えるような一枚もあって素晴らしかった。写真だけではなく、昭和10年代くらいにアサヒカメラに寄稿した「僕の寫眞機」という文章も展示されていて、写真を撮ることが好きな人が書いた文章なんだってことがよくわかった。この文章がとにかく良くて、写真を撮ることが好きな人にぜひ知って欲しいなぁと思った。

 

萩原朔太郎の写真を見て、ほっと心があったまったところで、同時開催されていたもう一つの展示へ

www.artsmaebashi.jp

予備知識もなく、第一線で活躍してる写真家もほとんど知らない。唯一、群馬出身の片山真理さんだけは知っていたくらい。それだって作家性というより、群馬出身で頑張ってる人って側面で知ってるって程度だった。

でも、そうした予備知識なくても心を揺さぶられるには充分すぎる展示内容だった。写真の凄みというか力というか。褒め言葉としての供給過多。もし、この展示内容を家で見ていたらパワァァァァァって叫びたくなるような感じだった。

一枚でも組みでも、写真以上のものが伝わってくる感じだった。さっきから「感じ」って言葉を多用しているけど、なんかうまく言葉にできないので「感じ」としか表現できない感じです。

 

萩原朔太郎の展示をみていなかったら、きっと「もっと違う撮り方しなきゃ」と僕が好きな撮り方を捨てて、目指すべき道を間違えてそう。展示内容が凄すぎて、受け止める僕側が対処できなくなりそうって話で、それくらい素晴らしい写真展だった。
詩人であっても写真が好きなある一人って立ち位置があることを知れたし、僕は僕の写真をこれからも撮ろうととても前向きない気持ちになれた。

数年前、とある写真コンテストに応募した時にこんな一文を添えた。

「写真中心の生活ではなく、生活の中に自然と写真が或ることを感じさせてくれた一枚です」

この文を添えた写真を見ると、僕自身が好きな写真ってものがよくわかる。

今後もこの立ち位置でハイチーズ。