朝焼け3.7

目の届く範囲の、日記みたいな写真を撮っています。

田植え2025―前編

山あいにある妻の実家では、平地にあるうちの田んぼより1〜2週間ほど早く田植えをする。同じ県内にあってもこうした違いがある。電気が通る前や機械化される前は生活様式の地域差がもっと色濃く出ていたのかなぁと想像する。

なんとなく、田んぼに張られた水が澄んでいる気がする。この水は近くの小川から引いていて、時々ヤマメが泳いでくるらしい。この田んぼより上に人家はないので、水がきれいだ。タガメが泳いでオニヤンマが頭の上を飛んでいく。小学生のとき、毎年、タガメとオニヤンマはうちの田んぼにも来ていて、友達に自慢したのを覚えている。いい水にしか来ない、そして確か敵がいないというような触れ込みだったと思うから、憧れもあったのかも。そんな二強が今もこんな身近なところで生息してることにに感動する。

田植え機で植えた後、小回りがきかな場所や、うまく植えられなかった場所に手で植えていく。

結構強めに引っ張ってかたまりから植える分の苗を取る。苗を掴んだ指先が田んぼの泥の表面に触れるとスッと指が沈んでいくような感覚がある。とても柔らかく土というより泥という印象に近かった気がする。いつ以来の感触だったのだろう。子どもたちは泥んこ遊びをする時にいつも味わっているんだろうか。泥の感触をよく確かめようと指を突き刺してみる。奥に進むとひんやりしていた。
暑くなった掛け布団の中で、足先が冷たい場所を探し当てた時の感覚に似ている。これは気持ちいい。

うちの家族にとって、田植えはちょっとしたイベントのようで特別感がある。毎年、いつまで続けられるかなという気持ちと、きちんと上の代から引き継いで子どもたちの食い扶持は作っていきたいという思いがせめぎ合う。
”続けてやる”という気持ちが毎年勝つのでここまで来ている。個人的に勝ち続けなきゃな、と思う。

頭の中で色んな気持ちが駆け巡りながらも、手をひたすら動かして植えていく。動いていると考えごとが意識の外に追いやられ気づけば無心で植えていた。自分の手元、今植えたばかりの苗からひつ先の苗に、またその先にと視線を移していくと、ちょっと曲がったけど一本の苗の筋ができている。背中から後ろに下がりながら植えていくので、進行方向は見えない。その分、やってきたことはよく見える。曲がっちゃいるけど上出来じゃないの。

泥だらけで疲れた体に風呂が沁みた。湯上がりに家の前を散歩する。綺麗な夕焼けとはならなかったけど、いい景色だ。山際の色がだんだんと濃くなっていく様子を風にあたりながら眺めていた。しばらくすると、ごはんだよ、と息子が呼びにきてくれた。

ごはんの時間だ。家族で美味しく食べるあの時間を、ごはんの時間と呼んでいるんだった。
席につくと一気に腹が減った。今日は娘がいただきますの挨拶をやってくれるらしい。
みんなの視線を集めながら元気な声が茶の間に響く。

 

それじゃぁ、ご一緒に。いただきます。