朝焼け3.7

目の届く範囲の、日記みたいな写真を撮っています。

餅つきと家族の話

今年も餅をつきに、曾祖父母が暮らした古い家へ。

 

盆暮れ正月、春と秋のお彼岸、この家に人が集まるのはこういう節目の時くらいなった。あとは時折お義母さんが掃除や庭の手入れに来るくらいだ。この家での暮らしはもうないけど、家族が集まる場所としての機能は今も生きている。

花を供えて線香あげて、ひぃじぃちゃんとひぃばぁちゃんに手を合わせてた。

人がいない家は寒い。旅行から帰ってくると玄関や窓際だけではなく、居間まで冷え切っていることがある。家にとって人は血液だとか栄養みたいなものかも知れない。人に家が必要なように、家にも人が必要なんだろうね。

薪ストーブに火を入れてみんなで部屋が温まるまでお茶を飲んだり、他愛のない話をする。古い家に再び血が通いはじめるような、そんな感じがした。

「さて、やるかねぇ」とお義父さんが言うと、子どもたちもジィジにならって「さて、やるかねぇ」と言って外に出ていく。何をやってくれるってんだろう。真剣に真似するもんだから可愛くてついニヤけてしまう。

 

もち米を蒸す。米に合うおかず選手権をするなら何がいいだろう。色々な顔ぶれが浮かぶけれど、シンプルさを追い求めた先は、湯気なのかもしれない。湯気だけで米がはかどる。おかずはいらないかも。

武蔵が二刀にたどり着き、やがて無刀に至るように、米もまた無刀に至る。噛めば感じる米の旨味と甘さ。無刀なれど無糖にあらず。その証拠に味見の終わりが見えない。ずっと味見をしていたかった。冗談はさておき、米の甘さとウマさがとんでもなかった。

 

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餅をつきはじめると、みんなその様子をじっと見守る。喋っちゃいけない決まりはないけど、皆黙ってその様子を見つめていた。餅つきの音は耳よりもお腹に響く。まるで花火の音のように体の芯に届く。

 

娘は物心ついて初めての餅つきだった。去年は体調崩していて不参加だった。娘以上に息子が残念がっていたことを思い出す。1年はあっという間だけれど、息子は人の気持ちに寄り添えるようになったし、娘は丈夫になった。子どもは1年間ですごく成長する。大人はどうだい。1年あれば態度や腹回りをデカくするのは簡単だ。子どもの素直さを見習って周りの人たちを大切にして真っ直ぐ生きたいな。

 

 

大人が席を外すと、待ってましたと娘がやってきて腕前を披露していた。よく見てるんだなぁ。娘も恒例行事を楽しめたようでよかった。僕も火起こしや餅つきに加わったけど、まだ参加しているという感覚が強い。自分で準備や餅つきが出来るようにならないと、家族の恒例行事は途絶えるんだろうな。今のうちに、一通りのことができるようになりたい(去年も同じこと書いた)

 

次に餅つきをする時は、手順を覚えたいからきっと今までのように撮る暇はなくなる。そう思ったので、今回は悔いがないように撮りまくった。撮って食ってを繰り返し好きなことばっかりやっていた。お義父さんも撮りねぇ食いねぇって言ってくれるから、全力で撮って食った。

 

子ども達が駆け回る様子をみて、お義母さんがずーっとニコニコしていた。子どもと過ごしていると当時の親の気持ちや眼差しを追体験しているような感覚がある。

 

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それと同じように、親も孫の様子を見ることで、若い日の自分に思いを馳せることがあるのかも知れない。お義母さんの笑顔はそういう種類の笑い方だったから、きっとそうだ。

 

息子が家族写真を見ながら曾祖父や叔父叔母のことを娘に説明していた。娘は、そこに自分たち兄妹が写っていないことが気になるようだった。写っていない理由を息子が一生懸命説明していた。その瞬間、"かぞく"という言葉が急に頭の奥の方から浮かび上がってきた。家族なんだなぁ。

君ら、小っちゃいけど、うちの大看板だぜ。どうぞそのまま、僕の人生のド真ん中で好き勝手してください。両家のじぃじばぁばには元気で好きなことやっててほしい。そして妻がいつもニコニコ笑顔でいられますように。そんで景気よく僕の尻を叩いてほしい。誤解がないように付けた足すと、妻は優しいし僕はドMではない。

家族がしあわせでありますように。世界共通の最高にイケてる願いごとだと思う。

ご覧の家族で今年をお送りします。いい餅つきになった。